大祭

九州長崎出身の長谷川(藤原)角行が、富士講の開祖といわれ、 富士山の人穴(ひとあな)で永禄元年(1558)に、 四寸角の上に爪先立って千日間の立ち行の末に悟りを開いたとされ、 さらに、富士登山百数十回、断食三百日など数々の難行苦行を行い、 106歳で人穴で入寂したと伝えられている。

その後、江戸中期になると、角行から六代目の食行身禄や村上光清らが登場し、 富士講はいよいよ盛んになった。中興の祖といわれる食行身禄は、財産や富貴は仮のもので、 永遠ではないとし、厳しい修行によってのみ体得できるとした。

そして、享保18年(1733)に、富士山7合目の烏帽子岩で断食入定、 即身仏となって自己の信仰を貫いた。

以来、富士講の信者は大いに増え、江戸末期には「江戸八百八講」といわれるほどであった。富士講を構成する人たちやその代表である先達も宗教を職業とする人でなく、生業を持っていた。

彼らは月に何度か集まって、掛軸を掛けて本尊とし、 拝み箪笥と呼ばれる小さい箱を祭壇として祈りをささげたり神意を占ったとされる。

近世、富士山が山開きを迎える陰暦6月1日から21日までの間に何人かを選んで 富士詣で(富士詣り)と称して富士山に登り、山頂の富士権現社に参拝する慣習ができあがった。

近年まで、富士山は女神を御神体とするため、富士山周辺の農村では、 富士山に女性が登ると天候不順や耕作不良が起きると信じられ女性の登山は嫌われた。富士山に行くことのできない人たちは、陰暦6月1日の前後、 江戸の浅草・駒込・高田など各地に分祀した富士権現社に参詣し、境内の富士塚に登って代償とした。

富士塚は、安永9年(1780)行者の藤四朗が高さ五間の富士山の雛型を造り、 「富士山に登ったのと、同じご利益を授けていただけるように」と祈念したのが始まりといわれており、 これが江戸に流行して、多いときには50カ所以上の富士塚があったとされる。現在でも都内には、10カ所程度残っている。

富士塚は、神社の境内だけでなく、 寺院や民家の庭先などにも造られていたが現在ではほとんど神社の境内に残るのみである。富士詣りの富士山本宮以外のルートには、御師の宿坊が現在でも数軒ある。

御師たちは御師団と呼ばれる組合を組織し、地元の浅間神社に仕える神職を持ち回りで選出する。御師は、富士講を含めた富士登山者を宿坊の自宅に泊め、 登山にあたっての修祓などの宗教的・事務的手続きを行ったり、強力の世話など行う。

また、富士講の先達に、富士講の教義や行名と呼ばれる行者としての名前などを金銭を貰って与えたり、 富士講の本尊である身抜や教典の類を発行した。

富士講は、山頂での参拝のあと、富士山本宮、人穴(富士宮市)、 白糸の滝、道了尊(南足柄市)や大山不動(伊勢原市)に詣で、箱根などへも足を伸ばし楽しんで帰った。

講の起源は、仏典を講義研究する僧衆集団の名からでており、 それが民間に浸透するにつれて在来の信仰集団に講の名称を付けるようになった。さらに頼母子や無尽などの相互扶助の共同労働組織の結や模合にもなった。

講は、大きく分けて、「経済的な結びつきである頼母子講・無尽講・模合講・結講など」と 「宗教信仰的講」の2つがある。

宗教信仰的講には、山の神、田の神、水神などの民俗宗教から自然発生した土着的な講や、 観音講・薬師講・報恩講・不動講・題目講・地蔵講などの仏教講、 霊社の信仰と結びつく伊勢・熊野・春日・八幡・金比羅・稲荷などの神道的な講や 山岳信仰に基づく富士講・三峯講・御岳講・白山講などがある。庚申講や二十三夜講なども、宗教信仰的講に入る。